史跡紹介(主に武術関係)

新潟県内の石碑、墓碑、武術奉納額、位牌など個人蔵ではないものを紹介していきます。

(個人蔵のものは、画像を載せるために許可を得る手間と所蔵先に直接問い合わせられて、相手側に迷惑がかかるため非公開としますが、いずれは許可を得て公開したいとは思っております。)

予定 武術家の墓所は各所にたくさんあり、おいおいと載せていきます

予定 村上市 藤基神社 神伝流心形刀流奉納額

予定 村松 武術奉納額

予定 村松 砲術奉納額

予定 新潟市 川村修就像

予定 三条市塚目 長谷川信行(剣術家)顕彰碑 画像はあるが詳細確認できず

予定 新発田市 末流平方 久米幸太郎追頌碑

予定 新潟市内神社 弓道奉納額 画像はあるが奉納年等確認できず

予定 新潟市内神社 弓道奉納額 画像があるが詳しく分からず

関川村 関鉄之介就縛の地 石碑

関川村湯沢の松岳寺隣の駐車場にある。近くの鉄之介潜匿の宿「田屋」跡地には住宅が建っており、案内板がある。尚、この項目(下)の関鉄之介の碑を参照。

旧味方村 諏訪神社 弓道道具奉納額

新潟市南区(旧味方村) 県指定文化財の諏訪神社内にある。

弥彦村 弥彦神社末社 下諏訪神社

弥彦神社周辺には多くの神社が存在する。そのうちの一つ。上諏訪神社とともに建御名方命をお祀りする。武勇に優れた神なのでお参りすると良いだろう。8月の相撲節会の際に三役力士の手数入り奉納が上諏訪神社と隔年で行われるという。

上越市 春日山神社 倉地正久先生碑

春日山神社内にある。刀法直心影流 倉地正久先生碑とある。大正12年に門人が建立。

倉地正久は高田藩士、文政10年(1827)3月23日生。幼名、陽次郎。幼より武技を好み、同藩士の直心影流荘角左衛門貞則(元は柳生流、後に荘田心流)に入門。後に奥田大作貞行、酒井良祐成大に学ぶ。

弘化3年(1846)二十の時廻国修行に出る。この時に記録した「廻国修行帳」が残っている。九年間という長期に渡り廻国した記録で日本武道学会第38回大会で某先生が発表されている。 

新潟市 白山神社 鏡淵意伯の碑(記念碑と歌碑)

白山神社公園内にある鏡淵意伯の碑。大正13年建立。初め秀之進、又彌学と称し、時雨園、又通明館と号す。(1826-1899)新潟市馬越の医家に生まれ、紀州(和歌山)で医術外科(三和流外科、華岡流外科)を修める。儒教や剣術に長じていた。剣術は滝沢某、島村某に学ぶとあり、これにより流派は直心影流と思われる。戊辰の役では官軍の居之隊(きょしたい)に属して病院副役兼剣術師範として活躍した。明治16年に新潟に居をかまえ医術の他に盲人教育に力を注ぐ。73歳歿。本馬越の諏訪神社に意伯奉納の狛犬があるという。

村上市 藤基(ふじもと)神社 直心影流奉納額2

藤基神社内にある第十三代 杉田新右衛門源正就の門人が明治25年に揚げた奉納額。門人には結構知っている名前がチラホラと。

村上市 藤基(ふじもと)神社 弓道道具奉納額1

弓道の道具一式

新発田市 越後伝二天一流 兵法八代 渡部六右衛門の墓所

新発田市上今泉にある渡辺家(渡部)の墓所。

向かって右が渡部六右衛門信行の墓。「廓聖院賢翁良道居士」、文政七年(1824)十月十九日没、背面に兵法二天二刀流新免武蔵玄信八代とある。他に墓地を建立した門人の名前も。

向かって左が六右衛門信行の子息、兵法九代 渡部六右衛門安信の墓。「観得院義然了動居士」 、弘化五年(1848)二月一日没、同じく門人建立の名も見える。

 

 

 

弥彦村 弥彦神社 絵馬殿 弓道奉納額2

同じく弥彦神社内、絵馬殿にある大正3年の弓道奉納額。弓道尊流開祖とある。

弥彦村 弥彦神社 絵馬殿 弓道奉納額1

弥彦神社内 絵馬殿にある逸見流の大正6年の弓道奉納額。みんなわかっていると思ったので、ここに載せるまでもないと思ったのだが…。 

見附市 摩利支天王神社

武士に信仰されていた武術の神様。新潟県に伝わった古流柔術も稽古前には必ず摩利支天の掛け軸を飾っていたと言われています。

寺泊(長岡市) 白山媛(しらやまひめ)神社 弓道奉納額

寺泊の白山媛神社内にある明治35年の日置流弓術の奉納額。神社については史跡紹介参照。

関川村 水戸藩士 関鉄之介の碑

桜田門外ノ変で現場の指揮をした水戸藩士 関鉄之介は各地に潜伏。その後、この越後の関川の地まで逃れてきた。関川村湯沢の温泉宿「田屋」に宿泊しているところを追ってに踏み込まれ、抵抗することなく捕らえられたという。この地まで逃げてきたのもすごいが、追ってきた方もすごいと思う。

詳しくは案内板を参照。2011年には関川湯沢集落の松岳寺に関鉄之介の就縛の地の石碑も建立された。(今度、画像載せます)

桜田門外ノ変に関わった天神明進流(栄進流)第52代の高橋某も宮城県まで逃げているし、 暗殺後はみんな各地に散らばって逃げたのか。

新発田市 越後伝二天一流 兵法八代 高橋浅右衛門信武の墓所

新発田市(旧加治川村)片桐にある兵法七代・丹羽五兵衛信英の弟子・兵法八代・高橋浅右衛門信武の墓所。高橋家には丹羽五兵衛の寛永3年(1791)の文書も残っている。高橋浅右衛門信武を随一、渡部六右衛門信行に相伝と。

三条市(旧下田村) 籠手田安定 石碑(歌碑)

三条市下田のある五十嵐神社本殿の左側にあります。心形刀流の剣術家でもあった籠手田安定が新潟県知事時代に奉納?した石碑(歌碑)。残念ながら私はこの歌を読むことができません。また、本にも記載なし。

明治二六年八月三日五十嵐神社請○

新潟県知事従三位勲二等 籠手田安定 とある。

 

なお、籠手田安定は明治24年5月27日に従三位を、明治26年6月29日に勲二等賜瑞宝章を授けられている。また、新潟県武術流派一覧のいろんな物の項目「籠手田安定 短冊)参照。

 

参考文献:史料 県令 籠手田安定Ⅰ、Ⅱ(昭和60年)

弥彦村 弥彦神社 新潟県文化財 大太刀銘正吉

弥彦神社 宝物殿にある。志田大太刀と並んで我が国最長の刀である。詳細は解説文を。

高田の刀工・三家正吉が奉納したもの。重さは22,5kg余。

弥彦村 弥彦神社 重要文化財 志田大太刀

弥彦神社 宝物殿にある日本一と言われている太刀。詳細は解説文を。

以下は解説文の補足として、

日本刀の中ではそり刀として最大級のもので、豪族・志田三郎定盛が時の備前国長船(岡山県)の刀匠・家盛に打たせ当社に奉納したとの事。鍔は丸形の練革を十三枚重ねて黒漆で塗ったもの。

この大太刀は慶弔十五年(1610)に、当時の佐渡金山奉行・大久保石見守長安が、越後地方巡礼に際し、弥彦神社に参拝の折に拝観したが、あまりの素晴らしい大太刀に驚き、わざわざ江戸表まで運び、時の二代将軍・徳川秀忠の上覧に供したと云われているとの事。この大太刀は「耽奇漫録」に志田ノ大太刀で図として紹介されています。

 

三条市 精力善用 自他共栄 記念碑

三条柔道倶楽部が平成15年に建立した碑。運動公園整備に伴い、柔道倶楽部も創立五十五周年を迎えるに当たりここに建てたとの事。場所は三条市総合運動公園内、市民球場、芝生広場、トリムの森へ行く階段手前の駐車場の一角にある。3枚目画像はトリムの森へ行く階段上からのもの(正面に球場が見える)。ここの公園はとても広くてトリムの森のトレッキングコースやウォーキングするにはとても良いところです。

「新潟市市民水泳発祥之地」の碑

昭和59年建立。正面の白い案内板は四世・櫛平朔が書いたもの。かなり風化しています。

碑のある場所は護国神社境内、一番鳥居近くのレストランの隣。護国神社正面からみて右側。

裏にある系譜は画像と以下の通り。

新潟 神伝派自然流開祖

○蟄竜・村山正臣

     |

○浩竜・坂本謹吾

○二世師範潜竜・梅沢幸吉

○三世師範潭竜・瀬賀虎三

○四世師範驍竜・櫛平朔――――○湊元克己

○洞竜・竹山九郎       ○岳竜・石山由太郎

○吉田渉           ○白竜・鹿島栄一

○有阪勝久          ○昇竜・小林庄一

○倉田作治          ○木村嘉一

○酒井議三郎         ○梅沢一男

 

坂本謹吾は言わずと知れた新発田伝荒木新流柔術第十五世です。氏も教員で村山正臣師より明治36年より3年間習い、第二世の師範をもらっています。その後は東京に出ています。

 

他の人のブログ「海岸ブログ」によると、三世四世師範は大畑小学校の校長経験者とのこと。

白竜は薬屋店主、昇竜は豆腐屋店主との事で、共に田中町の住人だそうです。

三世四世師範が学校の先生だということは以前から分かっていました。両師範等は越後に関係のある人物紹介に記載予定。

なお、四世師範の櫛平朔氏は新潟に真貫流柔術を伝承していました。技法目録が新潟市から出ているため、これを元に教えていたか? 新潟の人か誰かに伝えたかは不明です。

 

新潟市水泳之開祖・村山正臣先生記念碑

伊予松山藩の神伝流水術の津山藩神伝流十世・植原六郎衛門正方翼龍から免許を得た村山正臣が明治32年に新潟に来て、新しく神伝派自然流水術として指導。蟄龍神伝派自然流開祖・村山正臣を慕って弟子の洞龍・竹山九郎氏が建てた碑。詳細は画像の説明文を、人物については越後に関係のある人物伝に記載予定。場所は市民プール正面付近。

新潟市 ドン山(西海岸公園内)

新潟市では明治6年から大正13年までの52年間もの間、大砲で空砲を撃ち正午の合図を知らせていました。大砲は復元のもの。場所は西海岸公園内の二葉中学となり付近です。詳細は画像の説明文を。

佐渡 松塚の返り討:岡田の松塚

2010年5月13日(木)新潟日報朝刊16面の記事の写ッターで佐渡の「岡田の松塚」が載っていました。返り討ちのことが書いてなかったので書きます。佐渡市羽茂大石の県道沿いにあります。案内板にあるようにここで敵討ちの返り討ちがありました。寺田の入りは羽茂殿家老の末裔で代々武術に優れていました。入りの当主は一波流の達人で白井兵四郎といい、敵討ちに来たのを逆に返り討ちにしたため、この地では田んぼにすることを嫌がられこのまま残ってしまいました。私もはじめて見たときは、まだ案内板もなく田んぼの真ん中に古墳があると思っていました。

旧巻町・三根山(峰岡)藩 直心影流剣術 佐藤茂富歌碑

新潟市西蒲区(旧巻町)、三根山藩址、入徳館野外研修場にある「佐藤茂富歌碑」です。三根山藩に伝わった直心影流は新発田とは違った系統です。

表「霊剣のをしへをまもり功をつみ なを功をつめ武士の道 佐藤権左衛門茂富」とあり、裏には「を奈じ志を まもれただ竒しき 剣の法教へ つめる功績の 武士の道  神戸平武正」と「文久元辛酉年仲冬 川口平蔵包雅 門人一統 佐藤譲助藤原茂則」とあります。

佐藤茂富は蔓延元年(1860年)に83歳で没した。1861年、佐藤茂則(茂富の子)と川口他門人一同で建てられた碑です。

長沼四郎左衛門国郷―長沼四郎左衛門徳郷―長沼四郎左衛門亮郷―三根山藩士・佐藤権左衛門茂富

――三根山藩士・佐藤譲助茂則 、川口平蔵積包雅

 

藩校も入徳館と言って武術などを教えていたため、この地には他にも武術(槍術、柔術等)の資料等が残っていると思われます。

 

参考文献:飯田素州述、平成12年度巻東中学校3学年選択 社会

 

 

胎内市 越後伝二天一流 兵法十代 大沼紋司政守墓所

胎内市柴橋にある越後伝二天一流兵法10代大沼紋司政守の墓所。武芸流派大辞典の二天二刀流の項目に大沼紋司政守が吉田梅雄に出した伝書の内容が記載されています。この伝書の所蔵先は不明ですが、某家に大沼紋司の史料も少し残っており保存されています。

 

椎谷藩陣屋跡(現柏崎市)

現在の陣屋は正徳5年(1715)の第5代堀直央(なおなか)の代に画像の手前の小高い丘に(標高20m程度)移築し、慶応4年(1868)5月戊辰戦争による兵火で全焼したとある。陣屋は坪数約三千でかなり広く稲荷神社はもっと奥(東北)にあったが明治に移し現在に至る。奥には民家があり私有地のため見に行くことは難しいです。また建物はないが藩主邸、勤番所、馬場、砲術稽古場、井戸、土塁、門などの地形、遺構が残っていて江戸時代の陣屋の姿を見て取れます。

 

加茂市 新宮稲荷神社 剣客鷲尾甚助奉納石灯籠

加茂山公園内にある?加茂山要害城本丸跡登り口のすぐ北東側に新宮稲荷神社がある。ここに剣客・鷲尾甚助が奉納した一対の石灯籠がある。「文政十三年四月七日願主鷲尾甚助」があると案内板(紙を張っただけのもの)に書いてあり、他に「加茂町」と見える。よく見ても磨耗して読めない。また保護カバーがしてあり、なおさら読みにくくなっています。「加茂市の歴史年表」に「文化十年(1813)神道無念流の剣客鷲尾甚助義隆は新宮坂の下に道場を開いた」とある。鷲尾甚助は名を義隆、号を淵襲と称し、もと尾張藩士で、江戸の永井軍太郎正行に神道無念流(永井派剣術)の免許を受けたという。甚助は文化十年に加茂に来て小柳某の娘を娶り、新宮坂の下で道場を開き、近郷の人に剣術を教えたとある。門人の中には三條町の大庄屋宮嶋儀左衛門やその弟貞吉らがおり、国学者平田篤胤の門人でもあったという。甚助は平田の門人の柏崎の神官樋口英哲の勧めにより、文政十一年(1828)から同町浦町にも道場を開き、出張教授していたという。その後の彼は生田萬の乱に参加、ただ一人生き残ったが自首し獄死している。(生田萬の乱については長くなるので、別の機会に。またここの説明文は案内板を引用しました)

柏崎砲台跡(おそらく)

おそらくですが柏崎砲台跡です。先端では狭すぎて砲台は置けなかったと思われ、上の広い部分に置いたのでしょう。横から見ると松林のあたり。柏崎の某ホームページに簡単な地図が載っていたので多分間違いないと思う。間に鉄道あり。看板等設置していないので案内板を出しても良いのでは?

佐渡 御台場「小川台場」

佐渡市(旧相川町)の小川にある御台場「小川台場」。

案内板より

「中部北陸自然歩道 御台場

江戸後期になると日本海側に異国船の渡来が多く脅威が増大したため、小川の「殿見崎」崖上に御台場が設置された。佐渡では海岸に60ヶ所の御台場があった。弘化4年(1849)に越後柏崎から鋳物師を呼び大筒4挺を鋳造させ、小規模な施設を補強した。小川の「殿見崎」北側「原」に新しい御台場を構築し大筒を配備した。佐渡の御台場は姿を留めるものがないが、これは完全な形で残され当時の異国船防備を知る貴重な資料となっている。」

目の前はすぐ崖で荒れていると結構迫力があります。

新潟県の指定文化財となっている。上から見るとカタカナのヨの字の形をしています。他に新潟県では椎谷(椎谷藩)の浜に御台場跡二ヶ所あったというが、今残っているかどうか難しいところです。

 

五泉市村松郷土資料館

新潟日報連載記念特別展 村松郷土史巡り(期間限定で今はやっていない)ということで新潟日報新聞記事に神伝流(正式名称:奥山理想神伝流)の伝書が載っていたため、五泉市村松郷土資料館へ行ってきた。前に訪問したときは伝書類はないと言っていたのに保存されていた。村松藩に伝わった流派、神伝流、南蛮一品流、心形刀流の伝書を見てきた。伝書類は前半部しか公開されてなかったが、お願いして全部見せてもらい、写真に収めてきた。他に武具やお城の模型、代々の藩主の書など展示。伝書類はまた公開されるかもしれないので、その時は見に行ったほうが良いでしょう。

阿賀町 津川 西郷四郎之碑

志田四郎こと西郷四郎の碑。津川麒麟山中腹にある碑。表に「西郷四郎之碑」講道館 嘉納履心・明治二十年の昔、講道館で山嵐をもて鳴らしたのは西郷四郎である。この技は空前にして絶後といふ。したがって山嵐の壮烈な技をもって小説に現はれた姿三四郎を西郷四郎を小説化したものを見なしたが郷里の人達の考へは無理からぬことと思ふ。空想裡の■景(多分、情景)をもって生を過ごす小説家として、姿三四郎が実在したといはれることのこれ以上の誉れはないが、姿三四郎はけっして西郷四郎でなく、玄想の人である。作者の玄想裡に浮んだ三四郎の生涯の一齣に西郷四郎の面影が浮んだことは事実である。 

昭和二十七年秋 富田常雄 裏に昭和二十八年六月建立

なお西郷四郎の墓は長崎にあるが、没後85年を経て平成19年に本人の遺言により分骨された墓が正法寺にある。

 

新発田市 越後伝二天一流 兵法七代 丹羽五兵衛信英の墓所

新発田市真中の東光寺境内にある越後伝二天一流兵法七代・丹羽五兵衛信英の墓。「最忠院道法智乗居士」、裏面に「筑陽黒田之忠臣・丹羽五兵衛信英墓・天下無双兵法二天二刀流」とある。